坪内道典(坪内道則)
ポジション:外野手
経歴:旧制松山商(中退)→旧制天王寺商業→立教大(中退)→大東京軍、ライオン軍、朝日軍(1936~1944)→ゴールドスター、金星スターズ(1946~1948)→中日ドラゴンズ、名古屋ドラゴンズ(1949~1951)
経歴(監督・コーチ):朝日軍(1944)→ゴールドスター、金星スターズ(1946~1948)→中日ドラゴンズ、名古屋ドラゴンズ、中日ドラゴンズ(1949~1954)→西鉄ライオンズ(1960~1962)→中日ドラゴンズ(1965~1967)→ロッテオリオンズ(1972)→中日ドラゴンズ(1979~1986)
通算成績:1417試合 打率.262(5614-1472) 34本塁打462打点 OPS.679
再現年度:1949年
再現年度成績:137試合 打率.296(597-177) 10本塁打59打点 OPS.755
今回は、プロ野球黎明期の名選手・坪内道典をピックアップ。
坪内は松山商、天王寺商、立教大を経て1936年の大東京軍(後の松竹ロビンス、現在の横浜DeNAベイスターズの傍流)結成に参加。俊足好守の外野手として鳴らし、1944年には朝日軍で1度目の選手兼任監督に就任。坪内は戦前・戦中のプロ野球選手としては珍しく、太平洋戦争には出征しなかった選手でした。
戦後はゴールドスター(後の大映ユニオンズ、現在の千葉ロッテマリーンズの傍流)で2度目の選手兼任監督としてプロ野球に復帰し、1949年からは中日に移籍。1951年に現役を引退します。
現役引退後は中日の監督を務めた後、中日・西鉄・ロッテでコーチ職を務めました。
坪内という選手を語る上で欠かせないのは「1000本安打」と「1000試合出場」で、これをプロ野球史上で最初に達成したのが他ならぬ坪内。ただし当時は通算記録を表彰する概念がなく、坪内はこれらを1948年中に達成していますが、それを知ったのはシーズン終了後のことでした。
プロ野球黎明期の名選手として、1947年の日本国憲法公布に際して特別表彰を受賞、「野球名人」と称され。1992年には野球殿堂入り。
その功績に違わず、戦争中は自ら畑を耕し、野球道具を疎開させて戦後のプロ野球復活に大きく貢献。戦後ゴールドスターを立ち上げた時は選手会を立ち上げて選手の権利向上を目指し、中日では選手のみならず監督、コーチ、そして寮長として土台を支えた名伯楽でした。
そのヒゲの濃さから「鍾馗様」(中国の民間伝承に伝わる道教の神)に例えられ、また松山商、立教大時代のチームメイトに景浦将がいて親しく、その景浦の武勇伝を伝えたひとりでもあります。
<査定あれこれ>
ケガしにくさB、調子安定→査定した年度は35歳で、この年全試合出場。引退した1951年も37歳ながら全試合に出場しています。坪内自身は怪我と無縁という選手では決してないですが、安定して試合に出場し続けたからこその「史上初となる1000試合出場、1000本安打達成」があると思ったのでつけました。
盗塁B、走塁B→盗塁は1941年、1942年に盗塁王を受賞、通算でも344盗塁を記録。走塁Bは二塁打の多さから。
粘り打ち→坪内は打撃の特徴として三振の少なさが挙げられ、査定した1949年は641打席597打数に対して三振が32個とかなり少ないのが伺えます。