田原基稔
ポジション:投手
経歴:北海中→札幌鉄道局→国鉄スワローズ(1950~1952)→中日ドラゴンズ(1953)
通算成績:106登板 18勝38敗 496.2投球回181奪三振 防御率4.06
再現年度:1950年
再現年度成績:56登板 13勝22敗 287.0投球回114奪三振 防御率4.14
今回から早速、「実況パワフルプロ野球2018」で作成したOB選手をアップしていきます。
記念すべき1回目の選手は、国鉄スワローズ創設メンバーであり、かつ創設年となる1950年のチームの勝ち頭である田原基稔。
田原は1950年に北海鉄道局からプロ入りし、1年目となる1950年は上述の通りチームの勝ち頭になり、13勝(22敗)を記録。翌1951年には開幕投手を任されましたが、この年は4勝止まりに終わり、1952年はわずか1勝に終わってしまいました。
1953年は弟・田原藤太郎の所属する中日へ移籍しますが、一軍での登板はわずか1試合のみに留まり、この年限りで現役を引退しています。
社会人時代は三塁手で、のち肩の強さを買われて投手に転向。プロ入り時は投げ方すらよく知らず、同僚の投手を真似てフォームを作り上げたそうです。
それで13勝を挙げるのだから「すごい」とも言えるのですが、そこで酷使されたのか2年目以降は低迷。まあ、この時代ならよくある話です……。
<査定あれこれ>
球速→スピードガンがない時代はほぼイメージ。田原に関してはもちろんと言うべきか、球速についての言及はありませんでした。140キロ出せばこの時代では十分速球派だったと思います……。
変化球→ネットで調べて、恐らくはシュートとドロップが持ち球だろうと。サイドスローであるとの情報と、当時変化球と言えばドロップがポピュラーだったのでこのチョイス。
回復B→言わずもがな
球速安定・調子極端→防御率が4点台とはいえ、完投を11回、完封を4回記録しているのでその分の補正。基礎能力が低い分、これくらいの補正はしないとオーペナだとボコボコにされそうだったので。とは言え、1950年当時にプレーしていた選手が現代にタイムスリップしてきた場合のことを考えれば、ボコボコに打ち込まれる方がリアルなのかも知れない。
野手能力→104打席で打率.134は特別秀でているわけではないけども、二塁打2本、三塁打を1本記録しているので弾道2のFFDに。
<その他>
情報では「横手から投げられる重い球と……」との記述がありますが、被本塁打の数(24本)は決して少なくもないので今回はつけませんでした。当時がラビットボールであることを差し引けば、多くもない数字……だと思う。
パワターは、田原基稔本人の画像が見つからず(資料が手元にあるはずもなく)、たまたま出てきた弟・藤太郎の写真を参考にしています。とは言え基稔と藤太郎は7歳ほど年が離れているようですし、パワターのセンスがないのを差し引いても似ている保証はありません。情報求む。